ファスト教養という矛盾

 ある日の朝刊の頁の下に掲載されている出版物の広告欄に『ファスト教養』というタイトルを見て、一瞬たじろいだ。こんな本も出てきたのか。けなすブログはできるだけさけようという方針(みたいなもの)できた(つもりです)。つまり褒められないものは無視しようと。

 でもこれは杞憂でした。「ファスト教養」という現象についての批判的な本のようです。

 40年近く大学で「教養英語」を教えていたので、知っていて当たり前なんですが、あまり一般的ではない英単語にoxymoronという語があります。「矛盾語法」と訳されます。Open secretやbitter sweetなどです。で「ファスト教養」も矛盾語法ですよね。じゃ「ファストフード」はありか。これはぎりぎりOK。やむを得ない時は「ファストフード」もありだと。もちろん現在はいつでも「ファストフード」だろうけれど。さらにそれに抗う「スロー・フード」もあります。

 で「教養」は「ファスト」では身につかないものの事だろうと。「ファスト教養」を何も考えないで、肯定的にとらえている人は、「情報」や「知識」を「教養」と考えている。就職の面接で聞かれるような事に応えられる。う~ん、それではやっぱり「教養」ではなくて、「情報」や「知識」ですね。

 じゃ「教養」って何だろう。「情報」や「知識」と「教養」はどう違うか。「情報」や「知識」は一夜漬けでも取得可能な、付焼刃的な、すぐ剥がれる表面的なものだと思います。でも現代は「情報」や「知識」が社会で成功する基本的な、時には必須のアイテムでもある。先に知った者が勝ち、のような。とすると「成功」がもう一つのキーワードになるか。だから夜漬けでも、付焼刃でも、すぐ剥がれても、一時役に立ってくれればOK。そんな時代の「ファスト教養」。

 だから「成功」するためには、すぐ役に立つ「情報」や「知識」が重要だ。それも人よりも早い情報。人の知らない知識。それって今度は「競争」になるんですね。人と「競争」して勝った結果の「成功」。それでお金と名誉が得られるだろう。社会がそれを是認すると、教育もそれに倣う。子供が「情報」や「知識」を人よりも先にうまく獲得できれば、いい学校に進学できて、いい会社に入る事ができる。

 でもそれでは満足しない人が目指すのが「教養」かな。社会で成功した人の顔や発言を聞くと、人間として成熟していないように見える事が多い。ただ物質的に、社会的に「成功」しただけの薄っぺらい満足感にひたっている人に見える。

 では「教養」とはその真逆の、すぐには役に立たない。でもじっくりとその人間が、生きていくための糧となるような学びかな。それが負け惜しみではなく、人としての「成熟」(がいいとして)につながる。

 そして「すぐには役に立たない」とか「じっくりと」が「ファスト」の対極にくる「時間的な遅延」、それも「肯定的な遅れとさき延ばし」が大事です。「ゆっくりと、時間をかけて」効いてくる。「時間的をかける」が「教養」のもう一つのキーワードかな。

 でもまだ説明がすっきりとしないけれど、続けます。では何をどのように学べば「教養」となるか。『ファスト教養』の宣伝でも取り上げられていたけれど、「古典」を就職試験のために読んだ振りをする。粗筋だけ知識として手に入れる。これも対象は古典でOK.だけど学びになるためにはじっくりと読めばいいです。映画でも音楽でも知識や情報としてではなく、好きでじっくりと見れば/聞けば、それはその人の立派な教養となる。

 読みながら、自分の経験や周りの人の言動と比較してみる。登場人物の言動の是非について、フィクションと現実を比較して作者に同意するか。作者とはちょっと違う意見の自分に気付く事もある。そう、自分の知らない自分に気付く。いろんな面を持っている自己に覚醒する。多面的な自分に気付く。それが「教養」だろうか。ちょっと違うか。

 critical thinking、批判的思考というか、自分で考える事。お仕着せの情報や知識に対して、鵜吞みにしないで、でも最初から否定的に考えない。虚心に情報や事象を受けとめ、それに少しcritical な考察をぶつける。それこそが教養へ向かう道だろうと、とりあえず言っておこう。

 しつこく続けると、上記のようにcriticalに取り入れた情報や知識を、自分の身体に取り込むように血肉化するようなスタンスが教養ある態度かな。そんな風に表面的な知識ではなく、自分のものとなった知識や情報が教養か、と思います。