サリンジャーと短編の意味

1953年の短編集『ナイン・ストーリーズ』に「両手の鳴る音を知る、片手の鳴る音はいかに?――禅の公案」というエピグラフが掲げられています。これは「隻手の声/音声」という江戸中期の禅僧白隠慧鶴(はくいんえかく)が作った有名な公案です。

 We know the sound of two hands calpping. But what the sound of one hand clapping?

   --A Zen Koan

 このような師が弟子に問う公案は数多くあるようですが、その中でも「隻手の声」はいろいろな解釈があるようで。また様々な解釈が成立するような問いなのでしょう。これは後述するように、公案や俳句など、日本の短い表現における曖昧さ、解釈の広がり、短編小説との共通点などいろいろと考えさせられる。

 9本の短編の冒頭「バナナフィッシュにうってつけの日」の最後にサリンジャー作品で連作短編として語られ続けるグラス家のサーガの重要な人物である長男のシーモアが自殺をします。そのシーモアについて語り続ける次男のバディ。このBuddyには相棒・身代わりの意味もあるので、シーモア一人では物語が成立しない(隻手では音が出ない)。見えないようでシーモアの背後にバディがいて、もう片手となって、シーモアの、グラス家の物語が語られる(音が出る)、というように思えます。

 さらに短編では未解決の問題を連作では解決する事もでき、細部の補足もできるけれど、サリンジャーは謎を残したり、付け加えたりもする。または意味の後付けと言うか、読者や作者自身の補足説明も可能。

  そもそも短編と言うスタイルはNew YorkerやHarper, Atlantic Monthly, Cosmopolitan,という雑誌を舞台に作品を書く、アメリカ独自のスタイルでもある。そこで評価を得たら時々長編を書き、短編も書き続けるアメリカの小説家のか書き方なんですね。

 でもサリンジャーはデビューの『ライ麦畑』から長編は書いていない。短編を好む小説家。禅や俳句についても関心があるのは、短さ、言わない事≒言えない事を重視するからだろうか。短編の結末の曖昧さ、書き終えない事の方が、文学に相応しいと考えたのだろうか。

 あと、短編のレベルと言うか、分かりやすさで3段階にまとめると。日本で人気のあるO・ヘンリーのように人情噺が1つのレベル。高校生でも英語の時間にゆっくり読めば分かる。大学でも流行った時期もあったろうか。人間の善意を信じている。最後のドン電返し。読みやすい。という事はあまり文学的ではない(と言っていいでしょうか)。

 次は11月の研究会で扱ったケイト・ショパンの「デジレの赤ちゃん」。生まれた赤ちゃんに黒人の血が入っているのを見た夫に捨てられ、妻は赤ちゃんをつれて入水します。しかし夫の血筋に黒人の血が混じっている事が分かります。ここまでが小説。しかし読者や研究者は実は妻の方にも黒人の血が入っていたかも知れないねという議論があるそうです。これがレベルの2の短編。読みの可能性を持つテキスト。

 でサリンジャーについては、連作でいろんな情報を与えられても分からない、曖昧な部分が多い。どうも最小の情報量で書く事によって何を伝えようとしたのだろうか。人間の分かり得ない実相を伝えようとしたのか。解明しようとして分からないという結論に達したのか。作家の人生も分からない。

 写真はBantam版1986年。オリジナルは1953年リトル、ブラウン社から。なぜリトル・ブラウンではなくリトル、ブラウンか。それは1837年ボストンでLittleさんとBrownさんがLittle, Brown and Companyという出版社を作ったからです。

 このペーパーも家にある事は分かっているのに見つからず、アマゾンで注文。その後、書棚の隅にある事が分かった。キャンセルも間に合いました。そんな事がしょっちゅうあります。