「鍵」の「誤配」の物語

 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』再び。

 大好きなお父さんが9.11で亡くなった後、オスカーは父のクローゼットを探していて、青い花瓶を落として割ってしまいます。そこにはブラックと書かれた封筒があって中に鍵が入っていました。

 鍵はそれが開ける錠があって、その中には何かがある。そして鍵はよく比喩的にその何か≒真実を解き明かす道具という意味で使われます。しかし封筒にあったのは比喩ではななく、鍵そのもの。お父さんとオスカーが取り組んでいた謎の「第6区」探索はとん挫しますが、残されたオスカーは、鍵があてはまる錠をさがすために、鍵と父とのつながりを知るために鍵?となるブラックを探して5区をくまなく歩きまわります。

 ご存じのようにNYCは「区」boroughが5つあります。 マンハッタン、ブロンクス、ブルックリン、クイーンズ、スタトン・アイランド。これを公共の交通機関が苦手なオスカーは歩いてまわります、途中まで。というのは途中からお祖母さんの間借り人(実はお祖父さん)に捜査を手伝ってもらって、地下鉄やバスにも乗れるようになったのでした。

 結局「鍵」はお父さんのものではなく、(ウィリアム・)ブラックの父の遺品セールでトマスが買った(もらった)花瓶に入っていたものでした。息子とうまく行かなかったウィリアムのお父さんは、亡くなる前に息子に鍵をあげようとしたらしい。それがトマス(オスカーの父)に「誤配」されてしまった。この「誤配」はデリダの用語を東浩紀が『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(1998年)で敷衍したもので、ちょっと使ってみたくなります。

 実は「誤配」により、偶然の新しいで出会いや刺激がもたらせるという考えがあるらしい。日本の郵便事情は悪くないのですが、他国では日本ほど正確に配達されない可能性がある。つまり「誤配」は比較的なじみのある現象なのかもしれません。オスカーのブラック(鍵の正しい持ち主)探しが失敗しつつも、様々な人々(ブラックさんたち)に出会い、最後に正しい宛先(鍵の持ち主)に会う事ができるのですが、そのウィリアム・ブラックは鍵をほしくもない気持ちもある。または鍵で貸金庫を開けて、父親が残したもの(手紙?)を受け取りたい/受け取りたくない、両方の気持ちの間で揺れ動いている。

 そしてここでもウィリアムの父による「誤配」が発生してきます。これは正しい?「誤配」、つまりネガティヴな意味での「誤配」になるのかも知れません。ここまで説明していると、「誤配」というのは手紙(文字で書かれた)が間違った相手に配達されるだけではなく、言葉やコミュニケーションの失敗、不在を意味する事が解ると思います。またまちがった相手に出会ってしまう、間違った相手を愛してしまう、「誤配」もあります。漱石の作品における相手の「誤配」を論じた『なぜ『三四郎』は悲恋に終わるのか――「誤配」で読み解く近代文学』(石原千秋集英社新書)もあります。

 でも愛する父の喪失を、「誤配」によって癒されるとも読めるか。父との濃い交流は、他者との交流を阻んでいたとも言え、父の死によってオスカーは世界に旅出をしたとも言える。喪失の喪の作業から、「誤配」による世界への参加と新たな知見や経験が、オスカーの成長につながる。

 ただ原作の最後は、事件の前夜までの安全な世界への信頼が強調されているようにもみえます。この安全でない世界でどう生きるか。その答えをオスカー少年が知る訳はないのですが、退行的な過去への逃避に見えるのは、読み違いだろうか。「誤配」と同様、偶然の「誤読」もまた読みの可能性を広げる契機となるか(ならない?)。

 いや「誤配」による他者との交流と事実を知ったオスカーが最後に立ち戻るのは、夢≒虚構のように見えて、それこそがオスカーにとっての現実≒願望だったと。これは映画ではむりでしょうね。小説という形式においてのみ可能な結末だったと思い始めています。