図書館、テニス、戦争

 先週は北海学園の図書館で相互貸借サービスを利用して4冊の本を受け取りました。やっぱり4冊とも所有している北星学園から借りたものでした。その後のランチの話は省略して。でも安くてうまいのでいつ行っても混んでいます。

 火曜日にコートの雪は解けて、水曜日の午前中に乾いたので、ネットを張りました。冬の間、ネットや箒などの道具は管理人補佐である僕のうちのガレージに保管しています。車がないので物置とかしています。

 それで土曜にうちのコート開きですが、特に連絡はしなかったので、集まったのは二人だけ。山の手コートと両方利用できるようになったのはいいのですが、少し利用者の偏りが。ちょっとがっかりしたのですが今日は10数名も集まりました。勝手を言えばもっとバランスよく集まれば、あまり待たないでできるのですが。

 その途中で、近所のK先生(北大の北アジアの専門家だった)とお会いして、40分くらい?しゅとしてウクライナについての立ち話。

 ロシアの間違った使命感≒大国意識をプーチンが持っているとしても、なぜこの時点で侵略をはじめるのか。

 それは2008年のグルジア侵攻、2014年のクリミア併合と着々?と進めてきたプロジェクトの決着なのだろうか。

 侵略を始めた頃だったろうか、側近の一人が「歴史は事実ではなく解釈だ」と言ったそうだが、これは歴史について考えるスタートラインであって結論ではない。ほとんどすべての歴史は支配者・為政者の行動を合理化するものであったし、そうではない客観的で公正な歴史の記述を目指しても、記述・記録する者の無意識的な操作が介入します。無意識的な操作が入っていなくても、記述・記録する者の見る/聞く/読む事ができる範囲でしか記述・記録できないわけで。

 だから「歴史は事実ではなく解釈だ」は正しい。でも繰り返すけれどそれはスタートラインであって、デフォルトであって、そこからできるだけ公正で正確な歴史を作るようにする事が歴史家の基本姿勢になります。もう一度だから「歴史は事実ではなく解釈だ」と言って終わるのは、子供のような認識だと。

 似たような別の例で説明すると、他者の事を理解したいと思う人に向かって、「他者を理解する事は不可能だ」と言う言説があります。これは正しい。しかしそこで終わらないで、不可能である事をスタートラインとして、理理解しようとするのがもっと正しい。ま、これは簡単に理解できないという事を言うためのレトリックでもあるのですが。

 で「歴史は事実ではなく解釈だ」は誰でも自分流に歴史を解釈できる、自分の歴史観が正しいとした人の非常に幼稚な評言なんですね。そのような歴史観(とも言えないけど)を持った一人の人物が隣の国に侵略をして、それを誰も止める事ができないと言う世界の不条理。国際連盟も失敗したけれど(第2次世界大戦をとめることができなかった)、国際連合も同じか。常任理事国の拒否権については、チャーチルルーズベルトスターリン三者会談で押し切られたらしいけれど、スターリンの後継者?のプーチンがそのメリットを最大限に利用して、国連の無力さを世界に証明してしまった。

 K先生はモスクワや中東にも何度も行った事があり、その話はとても参考になりました。最初は少し寒かったのですが、後から日が差してきて背中もポカポカして。その後テニスはやめてブランチ(ビール+α付き)。