文明の衝突と一人一人の死――米国同時多発テロに接して

 3日間のナイアガラ見物を終えて9月10日(月)午後11時過ぎ、ニューヨークが嵐のため4時間近く出発が遅れてバッファロー空港(ニューヨーク州北西)を発った便は、11日(火)未明ラガーディア空港に着いた。その時着陸間際の飛行機の窓から見た夜景が、ツイン・タワーを目にした最後となった。

 翌朝札幌の留守宅からの「テレビを見た?大変な事が起こっているよ」という電話で、テレビをつけると1ワールド・トレード・センターにハイジャックされた旅客機が突っ込みビルが炎上している。いったい何が起こっているか混乱しているうちに、2機目がもう一つの2ワールド・トレード・センターに突っ込んだ。唖然としてみてると、1時間もしないうちに、ビルが地面に沈み込むよう崩れていった。

 このような大事件にもかかわらずマンハッタンのミッドタウン(6th & 7th Avenue 51st Street)に住む筆者にとって生活は普段とほぼ変わらなかった。これは筆者が厳密にはニューヨークの住人ではなく、半年滞在の旅行者に過ぎないことと、今回の事件がマンハッタン島(東西4キロ、南北20キロ)の南端にあるロウア-・マンハッタンという東西1キロ、南北2キロに限定された場所で起きたことによると思われる。犠牲者の規模は1995年の阪神大震災とほぼ同じだが、事件に関わる平面の大きさが格段に限定されているのは摩天楼という特殊な空間のせいだろう。ワールド・トレード・センターは110階の高層ビル2棟、そこで働く人5万人、観光客を入れると10万にもなる、ひとつの都市にも匹敵する人々が空に向かって屹立した建築物にいる。そこに攻撃を仕掛けるというのは、敢えて言えば非常に効率のよい方法と言えるだろう。一方周辺の住民にとっては比較的影響の少ない、近くに起こった大惨事なのに実感の希薄なことも事実だ。

 しかしメディアではニューヨーク全体がパニックに陥っているという絵柄で報道する傾向がある。元スピードの歌手がニューヨークから帰国した時の「ヒロ、地獄のニューヨークから生還」という見出しには苦笑を禁じえなかった。これはスポーツ紙という事を差し引いてもメディアの基本的な姿勢の一つだろう。

 メディアでの誇張された報道と実態のギャップを確かめるために、9月15日(土)事件発生後4日経ってから、事件現場に行ってみようと思った。バスで行ったのは現場に近づくにつれてどんな風に風景が変わっていくか見ようと思ったからだ。しかしキャナル・ストリートでバスを下ろされる。そこは事故現場から1キロ離れた場所で、チャイナ・タウンが南から進出しているところだ。地下鉄の封鎖も英語と中国語の2ヶ国語で掲示されている。警察によるピケが張られていて、その向こうに煙が見える。あちこちの壁に行方不明者を探すビラが貼られている。

 現場が遠くからさえも臨めないので、また出直すことにする。

 4日後の9月19日(水)昼近く地下鉄でフルトン・ストリートまで行く。ここは現場から2ブロックほどしか離れていなく、立ち入り制限地区にあたる。西ブロードウエーにそって封鎖がされている。ここからは目の前にワン・リバティ・プラザの灰にまみれた姿が立ちはだかり、遠くにワールド・フィナンシャル・センターの2つのビルが見える。廃墟はその間にあるが、全貌は確かめられない。近くには比較的低い4番ビルが燃え尽くした形で残骸となっている。

f:id:seiji-honjo:20210911141249j:plain 少し南に歩いていくと、写真のようにワールド・トレード・センターの倒れた鉄骨と思われるものが地面に突き刺さっている。そこでは多くの警官とともに迷彩服の兵士たちも警備についていて、物々しさを感じさせる。近くの建物は灰に覆われているが、それでも「今日の午後遅くには開店します」というような健気な掲示が貼ってある店もある。ニユース・スタンドで新聞を買っていつから再開したのですかと聞くと、昨日からと返事が返ってきた。見物人らしき人と話をするとセンターの近くのビルで働いているが、オフィスはまだ閉鎖中とのことだった。

 地下鉄は前述のキャナル・ストリートの近くチェンバー・ストリートからワールド・トレード・センター駅をはさんでサウス・フェリーまでロウア・マンハッタンの西側は不通。したがってスタテン島へのフェリーの発着場所サウス・フェリーは開いているが、そこへはバスか近くの地下鉄駅から歩くことになる。その隣のバッテリー・パークは立ち入り禁止区域なので、自由の女神を見に行くこともできない。バッテリー公園からハドソン川にそって再開発されたバッテリー・パーク・シティの住宅地も建物の崩壊はなかったが、水道、電気の不通、灰などの被害はかなりあったと思われる。フルトン・ストリートの地下鉄の出口で話しかけてきた人は、「この辺りに住んでいるが、まだ水もでないし電気もつかない。でもここを離れるつもりはない。この事件に関しては、崩壊したビルではなく人を見てくれ。ここの人々がこの事件にどう対処しているかをみるんだ。これがアメリカなんだよ」と語っていた。

 現場近くの消防前には、殉職した消防士へ市民が手向けた花や蝋燭を飾った即席の祭壇が作られている。同様の祭壇はタイムズ・スクエアのような大きな乗り継ぎ駅のコンコースにも設えてあって、そこには行方不明者を探すビラが所狭しと貼られている。また付近のレストランやアスレチック・ジムが消火や救助、復興に関わる消防隊員、警察官、兵士、作業員、ボランティアに食事・水・休憩所を無料で提供しているのは、この事件を多くのアメリカ人が人事ではないととらえているからだろう。

 この未曾有の大事件に関して、アメリカ政府とマスコミの基調はアメリカ本土が攻撃されたことへのショックと怒りだ。ブッシュ大統領の犯人(実際はまだ容疑者の段階なのだが)を必ず生死を問わず捕まえるというコメントを聞くと、西部劇の保安官に見間違えるほど時代錯誤的な姿が透けて見える。アメリカ人の単純な正義が20世紀後半の世界に大きな影響を与えてきたはずだ。アメリカは自分たちと異なる価値観、世界への理解と共感が欠けているように思われる。冷戦中も冷戦終了後も中東はアメリカにとって世界戦略の駒であって、その特殊な価値観、世界観への配慮という知的な態度は伺えない。今回のテロもその残虐性については許しがたいが、アメリカの無知と傲慢さも遠因であるとは考えられないだろうか。

 最後になるが、犠牲者の家族・親類・友人の方々の悲しみは計り知れないものがあるだろう。多くの人が亡くなるときに思い出すことがある。それは石原吉郎という1977年に亡くなった詩人の言葉だ。戦後シベリアのラーゲリ強制収容所)で8年過ごしたこの詩人は、言葉が無力であった極限状況から帰還した後、余計な言葉を殺ぎ落とした詩句で絶望と虚無、そしてそこから立ち上がる微かな生への希望を書いて逝った。彼は大量虐殺の恐ろしさを次のように語っている。

 「ジェノサイド(大量虐殺)のおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかにひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ」

 僕たちがこの惨事に対してしなければならないのは、一人一人の犠牲者の死を弔うこと、この惨事の原因と解決を未来に向けて考えることではないだろうか。一人一人の死を考えるということは、一人一人の生の意味を考えることだ。アメリカ政府が考えるような単純な報復ではなく、これ以上の犠牲者を出さない方法はないのだろうか。ニューヨークにいながら今回の事件の被害を免れた者の一人として、またアメリカ文化を研究する者として、考えることの多かった2週間だった。