たった100年で変わってしまう。「英文学」の事やジャズなどについてです。
「英文学」という概念や制度についてまだ未分明だった、曖昧だった100年前に漢文学や江戸の文化が残っていた東京で育った秀才(夏目金之助)がイギリスで英語と英語の文学について研究しようとした大変さについては少しだけれど想像できます。1900年にはイギリスでもそうだった。オックスフォードやケンブリッジでも「英文学」のコース(学部や学科ではなく)ができたけれど、学ぼうとする学生は少なかった。かえってイングランドの文学を外国文学として設定するスコットランドの大学に学科ができたらしい。
そんな状況で曖昧な「英文学」を本人も曖昧なままに模索して学ぼうとした漱石の苦闘。それがノイローゼになっても少しも不思議ではない。と言いつつ、もう少し戦略的に「英文学」について考えてもよかったのではないか。「文学論」の原稿を書くのなら。もしかすると「英語」を研究するために派遣された時に、「文学」については研究しようと考えたけれど、「英文学」についてはそれほど深く考えていなかったのかも知れません。繰り返しますが、ジャンルやカテゴリーがまだ成立していなかった時代の話です。日本の明治・大正の社会や家族、夫婦についてはずっと作品に描きつ続けたけど。
さて大学が英文学部や英文学科を作り、学生を送り出してきましたが、それも1991年の大学設置基準の大綱化から英語や外国語の必修が制度的になくなると、どの大学も単位を減らしたり選択化していき、それも実用的な外国を社会が求めるようになると「文学」は消えて英米文化学科になっていった。大学がそうなると、大学院で文学を研究しても、卒業後大学で教員になるポジションがないので、大学院志望者が減り、次代を担う若手研究者がいなくなる事になりますよね。
それと関係すると思いますが、伝統ある雑誌『英語青年』も2009年に休刊、『web英語青年』も2013年に終了しました。1898年に創刊したこの雑誌を僕も就職した1980年から大学生協に定期購読してきました。特製バインダーに整理したバックナンバーも退職時に処分してしいまいました。今では少し後悔していますが。でも「文学」が消えつつあるのは、アメリカ文学でも学会の会員数が減り続けている事からも明らかです。
ジャズの雑誌『スイング・ジャーナル』も1970年代から1990年代まで20年以上購読していましたが、雑誌そのものが2010年に終了する前にやめていました。えっと後半のオーディオのページが多くて分厚いので。最初は中学の時に兄の『スイング・ジャーナル』(まだかなり薄かった)を見て、黒人の中年女性のアップの写真が表紙で、唇の上にうすく産毛がはえているのが印象的でした。カーメン・マクレーでしたね。ネクタイをしたチック・コーリアもこの雑誌で。ケニー・バレルが雑誌の表紙では白人に見えました。
雑誌がなくなるのはそのジャンルが消滅する前の危機的な現象でしょうか。「英文学」と「ジャズ」もそうかもしれません。もう少しだけ厳密にいえば、ジャンルの構成要素が他のジャンルの中に生き続けるとも言えます。英文学会から英語学会やアメリカ文学の学会ができたように。「アメリカ文学」も白人男性の作家全盛から多様化して、いまではアメリカに一時滞在して英語で書いて発表したり、南米や中東にいて英語で書く小説をアメリカら発表するケースも多く、それはアメリカ文学ではなく英語で書かれた文学、広義の英文学とも言えます。
ジャズも即興の要素は、ロックやポピュラー音楽に見られるし、でもジャズ的な音楽は様々な演奏やミュージシャンに見られる。英語をジャズの語法や即興とすれば、それを使った様々な音楽の中にジャズは残るとも言えそうな気もします。リスナーの側からいうと、ジャズの全盛だった(と僕は思うのですが)1960~70年代を20~30代で生きた世代がいなくなるとかなり違ってきそうな気もします。
そしていつも言っていますが、1960~70年代は音楽だけでなく、映画や文学、つまり芸術や人文的な表現の生産の質と量が圧倒的だったと。それを20~30代で享受したわれわれは幸せだったと思います。単なる郷愁的な懐メロではなく、客観的に優れたものを大量に若い、感受性が豊か?だった時に見たり、聞いたり、読んだり、そしてその感想を話し合って議論したり(時には喧嘩にもなった?)できた事は幸運だった言えます。