世間話ができない

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 えっと、僕は少しはできます。でもできない男性が多いようだ。女性はかなりできる。これは男と女の文化の違いか。元はまた『三四郎』です。石原千秋編集の『夏目漱石三四郎』をどう読むか』(河出書房新社、2014年)の対談で富岡多恵子の発言。これはその通りと膝を打ちました。ちょっとひざ痛でサポータをしていますが。

 家の窓から公園の入り口を始終眺めています。散歩をする人。犬の散歩をする人。犬の飼い主同士の会話が聞こえてきますが、圧倒的に女性同士の会話です。病院などの待合室でも、知らない人同士が話を始める。これは中年以上の女性。女性の言語能力は男性より高い。深くはないけれど、会話が始められる。

男性は自分の社会の(会社の)位置、他の会社との比較などから言葉遣いを決めて会話を始める。経済や会社の話、ゴルフの話、ススキノの話題などか。海外に出ても日本の企業人は教養がないと言われた事も聞きます。歴史や文化や芸術などについて知らないできた会社人間たち。一時期企業戦士ともてはやされた事もありましたが、家では粗大ごみとなり、退職後も同様だったのは、会社を家として、そこだけで生きてきたからだと。会話をはじめとするコミュニケーションの他の場所では通用しない。

 『三四郎』でも列車で老人と若い女が話を始めても三四郎は参加できない。福岡出身で熊本第5高等学校を出て東京帝大で学ぼうとする23才の青年は、九州の方言を使えないと言う事は、高校でも標準を話してきたのだろうか。旧制高等学校の生徒の会話は出身の方言を隠して出来たばかり標準後でなされる。それもまたはエリート意識の醸成に役立つのだろう。

 でも地方出身のエリートが東京でエリートの妹たち美禰子やよし子などの女性と気軽に会話ができない。だからだろうか、コミュニケーション不能の主人公は観察者として出現する。そしてぼんやりとした観察者から、より主体的に見るようになる事については前にふれました。

  写真はドイツ系ピアニストのスティーヴ・キューンの1968年のアルバムWatch What Happens。タイトル曲はミシェル・ルグラン。その他はバート・バカラックカーラ・ブレイの曲を演奏しています。これもジャズ喫茶のアクトでかかっていた記憶があります。このころのキューンはスピードがあってフレーズがきれいだった。1966年のThree Waves, 1969年のChidhood Is Foreverなど新鮮ででした。