『虞美人草』母、愛の不在

  明治40年(1907年)に朝日新聞連載小説の第1作。漱石の職業作家としての第1作でもある。このブログで新しい読みを提示しようという訳では一切ない。もちろんそんな事はできもしないし。何とか読み終えて、例の石原さんと小森さんの批評を参考にして感想文を綴るのみです。

 前項の『道草』、お金小説で、兄姉や岳父、さらにもと養父からお金をせびられ、夫婦仲も芳しくないのに、けっこう面白かった。『虞美人草』の方が読みずらい。なぜだろうか。主人公というかファムファタールというか、「虞美人草」というタイトルから死ぬことを運命づけられているヒロイン藤尾に共感できないからだろうか。

 藤尾って今ならごく普通の、タイプにも思えます。つまり親や家の決めた相手ではなく、「自分で相手を決める。」もちろん当時では新しい女か。漱石の意図とは違い、読者には藤尾は人気があったようだ。読者って「朝日新聞」を読む山の手の中流階級の男性か。「自分で相手を決める。」事については現代の読者である僕も何も不満はない。でも藤尾の造形が美人で当時としては新しい女だとしても、人との関係において、その振る舞いにおいて共感できないように描かれている。じゃ、わがままで傲慢でも魅力的な女性っていそうだけど、そのように描かれている訳でもない。

 漱石の失敗作という批評も多い。かと言って藤尾に批判的な異母兄の甲野欽吾も説得力のある意見を言っている訳でもない。外交官だった亡き父の財産を継母と妹に譲るという無欲な高等遊民的な哲学者だけれど・・・

 『虞美人草』では父親が甲野の亡き父、甲野の従弟の宗近一(はじめ)・糸子兄妹の父親、そして藤尾が結婚相手と目する優秀な孤児小野の恩師と娘。ここで父の父性系、男性系の論理や言説が多数を占めて、母がいないと思いました。

  母親は藤尾の母である「謎の女」だけ。実は彼女は謎でもなんでもなく、計算高い母親であって、それはそれで生きるために仕方がないとしても、せめて血のつながった藤尾には計算のない、母性というか無償の愛を見せていれば藤尾の生き方も、人との接し方も違ったのでは。計算高い美人では新しい女も計算だけかとなってしまう。

   しかし無償の愛などと虚構の概念について口走ってしまいましたが、漱石の明治・大賞は男性社会なので、母性原理は家族内のみで、家族外・社会的には機能しないか。少なくとも長男相続の家督・家産の継承の中では、補完的にしか働かない。とすると藤尾の母と藤尾は甲野家の家督はともかく家産は手にしたい。その上での結婚の自由や相手の選択になる。財産がないと、お金のない小野君とは結婚できない事になってしまうし。

 コメディ・リリーフ的な宗方一と糸子の兄妹の兄が妹をからかい、妹がそれに負けていないで言い返すいくつかの場面が面白い。宗方一は冒頭に友人の欽吾と京都の叡山を上る場面も気の置けない男の友人同士の会話が楽しい。この宗方一は許婚のような藤尾には嫌われるが、他の登場人物と気軽に接することができるキャラクターとして、作者にとって物語を進める役割を持たされているように思える。

 そして最後に外交官試験に受かっロンドンに赴任した一に出した欽吾の「道義の廃れた結果が喜劇」だとする手紙への一からの返事「ここでは喜劇ばかり流行る」で小説は終わる。この最後の言葉は、ロンドンの事か、イギリスの事か、それともヨーロッパが道義の廃れた文明国家で、そんなところを範とするに足りないという漱石の持論の開陳なのか。小森さんと石原さんはもっと大きな歴史的コンテキストでとらえているようだが、これは難しくて・・・

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初めてトライしたなすびの実がなった。あと幾つかできそう。いつもいで、どうやって食べようか悩みます。