言葉の呪縛

 「コロナに打ち勝つ」という首相の発言は、もう国民のほとんどが信じないむなしい言葉として記憶されるだろう。そもそも疫病に打ち勝った歴史はない。疫病は多くの死者を出し、猛威を振るって去っていくだけだ。そこには勝敗という二項対立の古いというか頭の固い老人の頑固さだけがきわだつ。

 考えてみれば「コロナに打ち勝った証としての五輪開催」と言ったのは、体調不良で政権をさっさと去っていった(放り出した)A前首相だったはずだ。でもたぶんA前首相だったら、あまり自分の発言にこだわらなかったとも想像する。もともと思い付きで軽く発言する坊ちゃんだったから。軽いから2度も政権を放り出し、剰え(あまつさえ、この表現を使ってみたかった)3度目の政権を目指しているとも言われています。

 ところがS現首相は、あまりきちんと考えてこなかったはずなのに「コロナ禍の五輪」に拘っています。責任のあり方についてきちんと考えていないので、「コロナ禍の五輪」を遂行するという昨年レベルの言説に自ら呪縛されている。昨年と違う今年のレベル(コロナの感染の拡大、変異株の出現)との違いに目をやらず、一度言ったらその言葉を守るというところにたぶん責任を限定的に考えている(思い込んでいる)だろうか。

 深く考えた上でその言葉に呪縛されるのなら少しは同情の余地があるけれど、あまり考えず気分で何となく発言したようなので、それならA前首相のように無責任に放り出す方が、S現首相のように固執して国民に迷惑をかけるよりもいいくらいだ。そして「勝敗の二項対立」の方も、あまり考えないで「勝つ」ことの意味を肯定的に考えてしまう。勝ち負けに収れんしない事柄の方が現実世界では多いのだという事。スポーツや数字の記録のように明示的に順位や勝敗が決まらない事のすっきりとはしない結果とその意味をそのつど考えて、自分の思考の引き出しにしまっておくという訓練や習慣のない人なのだろうか。世界は白と黒ではなく無限のグラデショーンの灰色でできているという認識を持たない人なのだろうか。

 しかも五輪で感染が拡大したら責任の取りようがない。そういう場合に感染拡大は五輪のせいではないとか五輪のせいだけではないと言って責任を逃れるのだろうか。うまく行ったらそれ大丈夫だと言ったでしょうと自画自賛するのか。いずれにしてもミニまたはプチ独裁政権によるあまり賛成のできないお祭りが始まる。と言っても札幌でマラソンが開催されたら,見に出かけるかもしれない身勝手な老人(僕の事です)の発言でした。

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 写真は身勝手な老人のある夜の晩酌のお供。生協で買った餃子(皮が厚くてオイシイ)とビールの後の焼酎(泡盛)の後のウォッカウォッカは最近は痛風がこわくて?ロックに少し水をたして飲んでいます。するとこくはないけれど飲みやすくて量がいってしまいます。