説明しない ≒ 説明できない

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   昨日は10日ぶりに街に買い物兼ランチ。

 エッセイを書いた『フォークナー』22号の支払いに書店に振り込み。秋のスポーツウエアを見ようと思って行った池内が工事中。トイレに行った丸井で秋物セールで3割引きなのでフード付きのセーターを色違いで2枚買ってしまった。コーヒーを買って、桂和大通りビルの「チャイナ・パーク」で日替わり定食を注文しました。

ベストの組合せのレバニラ炒めとハム玉はもう1年半以上食べていませんが、青椒肉絲とハム玉が昨日の日替わりだったので。でも650円と安いランチなので牛肉ではなく豚肉、かに玉ではなくハム玉。でも味付けがいい。もちろんその前にビールと餃子(+紹興酒をグラスで)。

  新しい首相が官房長官の時の記者会見の対応を信頼できるあるテレビ番組のコメンテーターが「門前払い」と評していました。つまり説明しないで一蹴する。今回の学術会議の選考でも「法律に則って適正に実施した」とのみ説明。学術会議は税金で運営されているので任命権は首相にあり、拒否権もある。しかし形式的な権利を行使する場合でも、前例に従わないで拒否する場合には説明をしなければならない。

  2回も政権を放り出した前の首相の「ごはん論法」と同様、説明を嫌がるのはできないからだと思わざるを得ません。確かに政権の批判をする学者は煙たいかも知れないけれど、御用学者だけで構成される学術会議なら首相は裸の王様になってしまい、国民にとっては税金の無駄遣いになってしまう。批判を門前払いするのなら、コロナを甘く見てコロナに罹った大統領とあまり変わらないか。いや、それほどひどくはないと思いたい。