ヒップホップの言葉の力

f:id:seiji-honjo:20200614060158j:plain


   25日(木)からやっと対面授業が実施できる「現代文化論」はシラバス通りにするとヒップホップになります。「ヒップホップという亀裂」という論文は2001年に出した『ポストモダン都市ニューヨーク』に収録されています。2000年に同志社でシンポジウムをして、ちょうどニューヨークが好きな出版社の社長から本にしないかと司会の伊藤さんが言われました。その翌年2001年4月から半年の予定で在外研修を認められたのでコロンビア大学に客員研究員に申請して滞在。そこでニューヨークを実地見学しながらヒップホップ論と黒人映画がについて書いていました。アメリカの大学はちょうど卒業式~夏休みに入る時期で、英文科にサイードの名前のプレートは見つけましたが会えなくて、実はパレスチナイスラエルに向けて石を投げている写真がメディアに流れていました。滞在の最後に9.11に遭遇したのは何度も書いているとおりです。

 その後2007年から5年間、夏に名古屋で3日から開かれる国際アメリカ研究セミナーに委員として関わっていたんですが、一度コメンテータもやらせられて、その時の原稿を書き直して「Drop the Beat――ヒップホップとポストモダニティ」として出したんですが、特に反響なし。しかし数年前にあるブログでこれって論理的に公正に書かれていて初心者でも読みやすいよと言われて喜びました。

 前置きが長くなったけれど、今朝の朝日新聞の朝刊でも「文化・文芸」欄に「ヒップホップの抗議 人種を超える――「ブラック・ライブズ・マター」のデモ 世界中に」という記事がでたり、編集委員の「あるべきアメリカ 求める人々」というアメリカの人種差別の歴史とそれに立ち向かう良心的な人々の存在。そしてそれをぶち壊すような大統領の言動についてふれていました。

 ジャズ・ファンであるけれど、黒人のコミュニティに欠かせない音楽としてはヒップホップが有効である事は動かせない。もともとラップは学校の校庭や刑務所でも黒人同士の言葉遊び(schoolyard rhyme,jailhouse rhyme)、相手の家族の悪口や自慢(dozens, signifying, boast)など言葉あそびというか言語ゲームの歴史があるので、ある状況を即興で言葉にしてリズムに乗せる伝統があります。だから集会でもデモでもだれかがラップをして、周りの人がそれに反応する。ジャズでも教会でもあるcall and responseの文化が人の集まる場で人々を結びつけるんだと思います。

  Black Lives Matterという黒人の人権を主張する/守る運動・組織のanthemとしてラッパーとして初めてピューリッツァー賞を受賞したケンドリック・ラマーのAlrightが使われたり、1992年のロスの暴動の時のNWAのF××k the Policeがまさにピッタリの内容で再び使われたりしているそうです。

  抗議をしなければならない現象が再び起こるのは残念だけれど、抗議のためのラップが集まった人たちが合唱したり、楽しんだりできるのはいい事なんだろうなと思っています。ヒップホップ≒ラップの言葉の力が人種を超えて人々を結びつける。抗議の道具となり、一緒に楽しむツールとなる。これではジャズは勝てない訳か。