グローバリズムという幻想

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 1960年代のモダン=近代の理念≒啓蒙思想の終焉後の世界についてはポストモダンと位置付けられてその議論が1970年代の欧米、そして1980年代の日本でも喧しく行われました。それが1990年代後半には何故か流行の様に急速に終わってしまった。その後2001年の9.11についてこれはポストモダン以後の世界の始まりではないかとも言われましたが、それもそのままで。

 さて近代は近代国家という市民が主権を持つ国の成立によるもので、一般市民が主権を持って選挙によって代表を選ぶ民主主義だが、その市民の中の格差や差別が批判され、国をこえての移動や現象がはじまった。その後、インターネットによる情報の国境横断が加速し、ソ連の崩壊による抑圧的な連邦と周辺の東欧国家の独立と崩壊とイデオロギーではなく、宗教と人種の違いによるジェノサイドの悲劇も続発した。

 国家と言う枠組みの意味の相対化≒グローバリズムの意味が見直されなければならないのが、今回の新型コロナ・ウィルスではないだろうか。情報の国境横断なら奨励されても、ウィルスあるいは感染した人が国境をこえる事は許されない。グローバル化=国境の無化の否定的側面が象徴的に現れたのがEUではないだろうか。パンデミックのもともとの意味「すべての人々」が等しく感染可能性を持つ事を阻止するのは、一時的な国境閉鎖である。これは国家と国境を相対化するポストモダングローバリズムを見直す契機となるかも知れない。

 そもそもあまりちゃんと考えないでグローバリズムというお題目を唱えていた向きもあるので、もう一度きちんと国家と主権と国民について、そしてそれをいい意味でこえるグローバリズムを考え直すいい機会だとも考えられます。しかしこのウィルスの感染とその防止の両方に派遣国家の無策と勢力拡大が関係するのはマッチ・ポンプと思われても仕方がないような気もします。

 写真はきのう植えたホーリー・バジル。では今まで植えていたのは何バジル。たぶんスィーㇳ・バジルというイタリアンでよく使うバジルのようです。ホーリーの方はメディカル・ハーブとも言われるタイ料理で使われるバジル。