もともとリアルでない

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 授業が好きだという訳ではないけれど、やんるんなら学生の顔を見ながらやりたい。今のところ対面授業は6月1日からの予定ですが、これがどうなるか。札幌でも北大や市立大学は前期遠隔授業となっているらしい。

 僕はオンデマンドやリアル配信などはできないので、昨年までのレジュメのアップロードだけです。始めと終わりに話口調の挨拶や説明を入れています。それとこれも用意してあるパワーポイントはかなり容量がかなり大きいのではと思い使っていません。

 でコンピュータやインターネットを使ったサイバー授業って、ヴァーチャルで仮想的でリアルではない。でも現在の携帯電話やテレビも遠くの(telの意味でそのものですね)人とのやりとりや、遠くの画像を見るので、ある意味でリアルではないコミュニケーションなんですね。それが今回ウィルスのせいで、人と人とが同じ場で接触するという教育やライブや舞台や飲み屋などが不可能となってしまった。

 それを中止したり、補う方法としてサイバー的な手段でヴァーチャルな空間を生み出している。それって今までのヴァーチャルな空間を拡大しているとも言えそうです。サイケデリックのところでふれたハーヴァ―ド助教授にして学生やヒッピーのドラッグの導師ティモシー・リアリーは辞職~逃亡~逮捕という波乱の後に刑務所で悟る?んですね。これってマルコムXもそう。刑務所は時間だけはたくさんあるので、大方は自分を守るために徒党を組むか身体を鍛える方向に進むのですが、読書や瞑想に邁進する囚人もいます。

 1960~70年代のMind Blowingをドラッグや東洋の宗教(禅、瞑想)などで実現しようとしていた人たちは、コンピュータの世界に関心を持つようになる。インターネットはまだないけれどまとめてサイバー・スペースの世界ですね。ヒッピーたちのアイドルだったカート・ヴォネガットのSF的世界はサイバネティックスと呼ばれていたアカデミックな技術や装置をフィクションの世界でいち早く表現したと言えます。その発展形がW・ギブスンの『ニュー・ロマンサー』を始めとするサイバーパンクというジャンル。これはわがアメリカ文学界の巽孝之氏が紹介してくれて僕も読みました。その後学会で面識を得ましたが、もっと前に筒井康隆のエッセイでエール大学に留学中の巽君としてふれられていた俊英でした。

 さてサイバネティックスはアカデミックな用語にとどまりますが、サイボーグっていう言葉は石森章太郎の漫画などでロボットの発展形として60年代後半から使われていたみたいです。そう言えばサイバー・スペースを電脳空間と訳した本も持っていました。ちゃんと読んではいませんでしたけれど。それが現在ではサイバー攻撃やサイバー犯罪として使われるようになったとは。

 最後にリアル×ヴァーチャル/サイバーに戻ってまとまらない結論をでっちあげるとすると、100年前のレコードやラジオや電話の発明と普及がメディアによる時間と空間をこえた記録の保存と流通と消費のはじまりをも今から考えればヴァーチャルと言えます。それが戦後のテレビ、その後のインターネットや携帯電話などによるコミュニケーションの形態の変化を考えると、もう僕たちの世界はリアルではなくヴァーチャル/サイバーが大半を占めていて、それが今回のような人人とが接する事が禁じられている状況では有効である事がよかったような、残念な結末のような。

 それとコロナ対策の医療従事者の防護服もSFの世界を実現したようで少し異様にも見える。それがウィルスから人を守るのに必要だとしても。SF映画の1シーンのような映像が現実として流れている世界。でもとわれわれの住んでいる世界はある意味でずっと前から決してリアルではないんだという事を考えてみました。

 写真はテーマと無関係に、秋に作った寄せ植えの鉢に入れたクルマバ草。宿根草で冬をこえて小さい花が咲きました。