B級ノワールと一流脚本家

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 ジョセフ・H・ルイス監督による1950年の『拳銃魔』(Gun Crazy)を見ました。在職中に研究?資料として買っていたDVDを本やCDだけでもたなくなり?見る事に。

 主人公の少年時代からの拳銃へのオブセッションの説明、そして戦争から戻り、カーニバルで女拳銃使い(芸人)と出合うまでの前半3分の1はそれほどでもないなぁと思って見ていたら、生活に困って二人とも得意な銃を使っての強盗行脚に転じてからのテンポと描写が面白い。

 実はあのダルトン・トランボが脚本に参加していいました。ウィリアム・ワイラーの『わが生涯最良の年』(1946)の脚本を担当したマッキンレー・カンターが『ザ・サタデー・イヴニング・ポスト』に書いたGun Crazyの脚本を原作者のカンターとミラード・カウフマンが担当。でも脚本の大半はトランボがカウフマンの名前を借りて書いたようでした。

 制作のキング兄弟は赤狩りでブラック・リストに載った脚本家に仕事を与えた事でB級ノワールの質を底上げする事になったと『B級ノワール論』(吉田広明、作品社、2008年)に書いてありました。ま、脚本料を低く抑えて搾取した部分もあるのでしょうが、面白い現象だと思います。また元ギャングだったという噂のあるキング兄弟がスロット・マシーンで儲けた金を映画製作につぎ込んだのでslot machine moviesとも言われていたようです。キング兄弟の元の名前はコジンスキーで、自殺した有名な作家(『異端の鳥』)と同じ名前でユダヤポーランド人かロシア人だと思います。因みにルイスもユダヤ系ロシア人の息子でした。

 さて映画は、二人が強盗をする予定の銀行までの車のシーンがドキュメンタリーを見ているようでした。運転席と助手席に座っている二人の道路の込み具合についての何気ない会話から銀行の前まで乗り付けるのを後部座席に置いたカメラでとらえているので臨場感があります。そのまま銀行に入っていくバートと車で待っているアニー。そして銀行の前に来た警官とやむをえず会話をして、バートがお金を奪って銀行から出てきた時、警官を殴って逃走するシークエンスの緊張感とスピードもライス監督の演出家としての映画的技巧だと思います。

 この作品はGun CrazyからDeadly is the Femaleというタイトルに変更されて封切られたけれど当たらず、元のGun Crazyで公開し直しけれどそれでもだめだったようです。でもフランスでは評価されたとか。1950年代末にはじまったヌーヴェル・ヴァーグに影響を与えたのではないかというのは根拠のない僕の意見です。もちろんアメリカン・ニューシネマの嚆矢1967年の『俺たちに明日はない』にはその強盗カップルという基本的な設定においても影響関係は明確です。

 でも『俺たちに明日はない』の方は背後に不況時代の大衆の不満を犯罪で表現したと言えますが、『拳銃魔』の方はそのようなルサンチマンはなく、ひたすら無軌道な女とそれに引きずられる男の物語で、実はこの方がヌーヴェル・ヴァーグなら好みそうにも見えます。イデオロギーと無関係で、ひたすら暴力的でエロティックな新しさ。実際ルイスだけでなく、ニコラス・レイフリッツ・ラングらのアメリカのB級ノワールが映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の若者たち(ゴダールやトリフォーなど)を魅了し、『勝手にしやがれ』に代表されるアンチクライマックス的ナラㇳロジーにつながったと考えられます。もともとフィルム・ノワール自体が、アメリカのハードボイルド小説のフランス語の翻訳が人気を博し、同期時に入ってきた映画化作品がその名付けのはじまりだったので。さらにB級への一部フランス人インテリの理解と受容はずっとあって興味深い。そしてそのヌーヴェル・バーグがアメリカン・ニューシネマに影響を与えるという関係も。

 ゴダールの方がこのアンチクライマックスな手法を続け、トリフォーは比較的早めに伝統的な物語の描き方をするようになったのはまた別の話し。何か、今度は映画の話が続くような気がします。

 写真はファナティックに銃を向けるアニーをバートが抑えようしていますが、暴力的な女性とそれに引きずられる男性という逆転した関係もこの映画の特徴ですね。