無表情と笑顔の中間

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  最近social distancingといわれ、「社会的距離」って訳すけど、「社会」ではないんですよね。「社会」って「人と人」とでできていますよね。それにsocial danceと言えば「社交ダンス」と訳すし、「社会、親睦、人と人、人と集団の関係」という観点から訳し直さないといけないですが、辞書でも「社会的距離」と訳していて、辞書を作る人を尊敬していましたが、少し・・・

 でやはり変だとおもったのか、physical distanceと言い直しつつあるようです。「肉体的・物理的距離」、この方が分かりやすいかも。もともと言葉に代わるコミュニケーション・ツールとしてのボディ・ランゲージの一つとして相手との距離の取り方がありました。欧米人が近く、アジア人は遠いかな。

 でもこれって欧米人の方が人と親しくしたいというよりも、害を与えないよとかネガティヴな理由によるような気がします。アメリカでも気軽に挨拶をするのは、自分が危険を与える存在ではないよという意思表示だという意見もあります。見知らぬ他人と無表情ですれ違うのは、ある程度は同質の人種・文化・風習の社会で成立しますが、例えばアメリカだとやっぱり何らの挨拶というか、大丈夫、危険ではありませんというサインやボディ・ランゲージが必要になるのでは。それを煩わしいとと感じるか、当たり前だと受け取るか。

  それにしても日本の、特に男性の無表情はいただけない。それが知り合いと会うと急に笑顔になるそのギャップも。だとすると無表情と笑顔の中間の表情でいると、街ですれ違う見知らぬ他人にもそれほど不愉快な気持ちを抱かせず、知り合いに会った時の笑顔との不自然なギャップも回避できる。実は僕自身も40代の時に、女性と外国人の同僚にぶっきら棒だと言われて、反省しました。それ以来、笑顔の手前の表情をデフォルトとしています。その後に会った人にはにこやか?にしていると言われるようにも。にやにや?していると言われないように気を付けますが。

 

 1学期の「現代文化論」(≒アメリカ文化)の履修者が250名を越したのですが、大学は筆記試験を嫌がるのでレポートにする。いままで100名以上の履修者で試験ではなくレポートにした事がないので採点をどうするか。大変だけれど時間がかかるという事だけ。時間は余るほどあるし。7月末に終息していれば筆記試験でもいいけど。5月末か6月にでもコロナの状態を見ながら決めてもいいのかもとも思います。