銀座、新橋…

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 30才前後から40代前半くらいまで東京に出張すると神田に泊まった話を数日前に書きました。そうしなくなったのは主たる目的の英文学研究の一つの砦ともいえる北沢書店の撤退、それは少しづつ進んでいた文学離れの予兆とも前兆ともいえた。それと同期するかのような1991年の大学設置基準の大綱化。これは、文部省の大学に対する規制緩和ですが、具体的には語学の必修を外したのもわれわれにとっては痛かった。書いているうちに興奮?してタイトルから離れてしまうけれど、学内での教養教育の再検討≒教養部消滅?につながりました。そんなで1990年代≒僕の40代は母の死、結婚と文学研究から文化研究へシフトしていった時代。

 それと神田散策の終わりもゆるく関係していて、銀座~新橋に移っていきます。

 途中新宿にも寄り道。東京の友人に新宿の思い出横丁に連れて行ってもらいました。新宿では紀伊国屋にもほぼ必ず行く事に。これは研究書・原書さがしがまだ続いていたんです。その近所のてんぷらの綱八にも。新宿のディスク・ユニオンにも行きました。フロアごとでジャンルが違う。そこで札幌のジャズ・ドラマーのTY君(北海学園のジャズ研出身)に偶然会いました。たしか横浜のジャズ・フェスに出るときのことで、僕も横浜に行って聞きました。

 その後銀座に。1丁目付近のモントレーに泊まった時、そこからの散策がうまくいかなくて、新橋寄りの日航アーバンに数回泊まった記憶が。ここはもうありません。5丁目付近の東武や三井ガーデンの銀座プレミアにも泊まったけれど、なんとなく落ち着かなく、結局新橋駅の近くの第一ホテル・アネックスに。

 新橋は銀座にも浜松にも築地にも近くて便利でした。でもまだ池波正太郎の影響下?にあって、銀座アスターにも行ってみました。1丁目の本店ではなく5丁目の南店。映画監督も通ったという維新號は銀座8丁目でほほ新橋。銀座三越の瓢香は中国老菜四川とあって、雰囲気も悪くなく数回行きました。

 寿司屋は敷居が高いので、水谷といいのと司のみ。水谷は数寄屋橋の次郎の小野次郎さんの一番弟子と言われた水谷八郎さんが横浜で次郎関内店のころに行き始めました。かみさんが横浜に住んでいた1994年ころでしたか。まだ4000円代だった。初めてボイルしたエビをすし屋で食べておいしかった。北海道ではあまり茹でないから。たぶんそこで早川光という漫画の原作者で寿司の評論家?になりつつあった人物もカウンターにいました。彼の『江戸前ずしの悦楽』という次郎よこはま店の12か月間のネタの推移を追った本も愛読しました。

 水谷はその後銀座に進出?した後も数回行きました。すし司も早川さんの本で推奨していたので、予約して行ってみました。東銀座の歌舞伎座の裏手を迷いながら探し当てていくと町の寿司屋さんの趣があって、主人も感じがいい。味はまぁまぁでした。いいのは出版社のお世話になった編集者への慰労で。

 銀座で食べても新橋に戻ると少しほっとする。やっぱり田舎者で銀座では肩がこるのでしょうか。ホテル近くのバーでラフロイグハイボールを初めて飲みました。あんなくせのあるアイラをハイボールにするなんてと思うでしょうが、ふつうのウィスキーのハイボールよりもちょっとくせがあってそれが逆においしいと感じます。

 札幌の円山のそばやさん、十六夜っていったかな、ジャズ喫茶グルービーの南東の斜め向かいにある店。そこでもラフロイグハイボールを飲みましたらから、けっこう一般的になっているのかな。

 写真は瓢香のよだれ鶏っていったかな。学会のシンポジウムが終わった翌日にほっとして、札幌に帰る前に寄りました。上のほうの写真は日本橋高島屋の特別食堂にある野田岩の白焼きとうな重。白焼きの上のほうにイヤフォンとか本とか、飲んでいる途中の日本酒の瓶とかおいてあります。もちろんお酒の前にはビールのグラスがあったはず。白焼きでお酒を飲んで、あとはかば焼きをかっこむという趣向です。これも大学評価の委員会が終わって、札幌に帰る前でした。