『コンビニ人間』を読む

f:id:seiji-honjo:20200205083202j:plain


 ちょうど1週間間の朝日新聞の「文芸時評」でフランス文学・比較文学そして芥川賞作家の小野正嗣の「僕たち誰もが『コンビニ人間』」を読んでアマゾンで買いました。

 村田沙耶香芥川賞受賞作品で、160頁500円で読みやすく買いやすい。帯に「累計100万部突破」とか「24各語に翻訳決定」とか威勢がいいです。

 小野さんの紹介ではチェルトナム文学祭で『コンビニ人間』の英訳が大量に積み上げられ、アメリカの大学の創作学科でも話題になっていたとか。

 チェルトナムってディック・フランシスの競馬ミステリーでよく出て来るコッツウォルズに近い障害競馬で有名な場所ですね。

 さてそんな『コンビニ人間』、芥川賞≒純文学としては面白い。主人公古倉恵子は1998年大学1年の時にコンビニでバイトを始めて生まれ変わる。

 それまでの恵子は学校でも家庭でも回りと合わせられず「変わった人(子)」として浮いてきた。それがコンビニのマニュアル通りに大きい声で積極的に接客し、棚をてきぱきと整理して、有能なコンビニ店員と評価される。

 社会の中で普通に生きるためには子供として、友だちとして、大人になれば同僚として妻または夫として、親として多様なペルソナをつけて役割を演じ続ける。その中での自分を確保し続けるのにもかなりのエネルギーを使わなければいけない。

 そのような複数の仮面をつける事ができないで「変人」と言われてきた主人公はコンビニのマニュアルを得て、コンビニ人間として再生したと言えます。このコンビニと言う空間で恵子は生き生きとし、同僚からの信頼も厚い。

 しかしある時、店員失格の元同僚と同棲(と言えるか?)しはじめた時から、コンビニの同僚からも30代半ばまで18年間もコンビニのバイトでいた事に危惧を抱かれていた事を知ります。つまり恵子が満足していたコンビニ人間は同僚のコンビニ店員からも有能だけれどちょっとなと思われていた訳で、コンビニ人間としてのただ一つのペルソナでは、自分に最適だと思っていた場においても浮いていたのでした。

 で、最後に就職をしようと面接に出かける途中で、やはりコンビニ人間として生きる決意をするのです。

 この社会における普通/正しいという規範から逸脱する36才の未婚のバイトの女性の逸脱を正当化するコンビニと言う機能的で無機質の小世界の小冒険が面白く愛おしく思えてきます。自分たちの普通/正しいという規範に従うように見えた恵子への歓迎の仕方に違和感を覚えた彼女が真っ当な?就職をやめて、新しいコンビニに向かうラストも雄々しいように思えて。

 コンビニは世界のどこでもあるのでしょうが、日本の様にどこにもあって、いつでも開いているお店はあまりないでしょうね。つまりそのあり方が極めて日本的で、店員がマニュアル通りに行動するという意味で、「人間」という有機的で複雑な存在とは相いれない。それが「コンビニ人間」というようにオキシモロン(撞着語法)のようにくっつけられて、逆に「コンビニ」の妙に人間的な部分と「人間」のコンビニ的≒マニュアルで生きる部分が、撞着/矛盾するようで、現代社会では必ずしもそうはなってもいないような現実を描いているように思えます。