奴隷文学の映像化

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 18日の支部大会の特別講演は「奴隷文学」について。そのための俄か勉強をしています。

 ピューリツア賞とナショナル・ブック・アウォードをダブル受賞したColson Whiteheadの The Underground Rairroadを(2016)もペーパーで読みつつ、Amazon制作の映像も見ています。プライム会員の特典映像でたぶん?無料です。

 コーラという黒人少女の逃亡について、興味深いけれど映像ではけっこうつらい部分もあります。ジョージアからサウス・カロライナ~ノース・カロライナ~テネシーインディアナと束の間の平安を挟んで逃亡していく。

 コーラの母のメイベルをつかまえられないスレイヴ・キャッチャーのリッジウェイの執着がすごい。自由黒人を雇っている父親(鍛冶職人)に認められないリッジウェイ少年が反抗もあって黒人への憎しみを深めていく。

 黒人の人権を認めていると思っていたら、黒人男性を人間の耐性の実験にしていたり、黒人女性に不妊手術を施していた白人共同体のサウス・カロライナ。奴隷制は認めないけれど、逃亡奴隷には重罰でのぞむノース・カロライナ。リッジウェイに捕まって過酷な旅をするテネシー。そして裕福な黒人コミュニティにつかの間の穏やかな時間と住処が与えられるインディアナ

 ここでは知的で優しいロイヤルという黒人男性から好意を示される。しかし彼から地下鉄道への同行を誘われて、過去の過酷な逃亡を思い出して断るコーラ。実はこの地下鉄道がSF的というか寓意的な仕掛けなのです。19世紀前半鉄道はできつつありましたが、地下鉄はもちろん存在しない。

 Underground Rairroadというのはすでに存在した鉄道の駅や車掌や駅長を、逃亡組織の隠れ家(駅)、その責任者(駅長)、移動を手伝う担当(車掌)という比喩的な言葉で表現していたんです。それをそのまま、文字通りに存在するものとして表現した。この地下鉄道の持つ意味が少し難しいというか、考えさせられます。

 監督は『ムーンライト』で2016年のアカデミー賞を受賞したバリー・ジェンキンス。映像は美しい自然を背景に人間の特に白人の残酷な所業をリアルに描いていてじっくり見ると疲れます。そのような残酷な行為の対象である黒人の強さ。でもいつも憂いに沈んでいるコーラの表情。この南アフリカ出身の監督でもある女優がこの役を演じるストレスを想像してしまいます。演じるその前後のメンタルな影響が気になるくらい、たいへんな役だと思いました。

 エピソードの10を最後まで見ました。コーラを捨てて逃亡した言われる母のメイベル。しかし他の奴隷を助けるメイベルの正義と勇気が描かれます。そしてシーズンの2もある。という事は原作で終わった後の物語も映像ではやるのでしょうか。それとアマゾンが映像制作にまで乗り出しているとは知りませんでした。

 写真は右が原作。左がやはり奴隷の物語で有名な『テッサ・ローザ』。

会津少年のその後

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また柴五郎です。『守城の人―明治人柴五郎大将の生涯』(光文社NF文庫)を読んでます。理由は『明治の会津人』が柴の幼年学校時代で終わり、その後も柴五郎について知りたいと思う気持ちが置き去りにされたからです。

 『守城の人』の方は、遺族の許可を得てその後について柴の日記等から再構成しているようです。しかし柴はなぜ幼年学校時代までの草稿を『明治の会津人』の編著者石光真人に託したのでしょうか。想像ですが、士官学校以降の柴は努力と誠実な人柄と能力もあって比較的順調な軍人人生を歩んだと言えます。その前の会津藩が滅びて祖母・母・姉妹が自刃し、残った男性家族の苦闘、それも薩長政府の敗者への無慈悲な処遇に一矢(一筆?)報いたい、後世に歴史の愚かさと非道を書き残したいと言う思いだったのでないでしょうか。

 1992年光文社、2002年光文社文庫に入った『守城の人』の作者は村上兵衛(1922‐2003年)という軍人出身の作家です。23才で中尉として終戦を迎え、東大独文を卒業後『新思潮』(第15次)により作家活動を開始したようです。友人の三島由紀夫が死んだとき司馬遼太郎と三島を偲んだ対談をしています。村上と司馬は同い年で、司馬は戦車隊にいて中尉で敗戦を迎えている。

 700頁余の大部の文庫は厚くて読みづらい。特に横になって読むと。古本なのもあってなので目が少し・・・カビのせいかな。でも面白い部分もあり読み終えました。正直に言うと、前半の3分の1くらいは『明治の会津人』≒幼年学校時代までなので、その後を中心に読みました。その後に前半も(少し流したけれど…)よみました。柴は清や韓国、そしてロシア、さらにイギリス・フランスなどの侵略の思惑が錯綜している東アジアに関心をもって中国語を学んでいた。それが後に役に立つ。幼年学校で学んだフランス語も。

 1898年の米西戦争の観戦武官としてアメリカ派遣の時には『坂の上の雲』で有名な秋山真之とも遭遇する。お兄さんの好古とは陸軍士官学校同期(第3期)。そして清の公使館付き武官として駐在していた時に義和団事件が起きる。反キリスト教的集団の義和団を清の実力者西太合は最初征伐しようとしますが、なかなかできないのと、「扶清滅洋」をスローガンとしている事もあり認めると言うか利用するようになります。アヘン戦争から日清戦争の敗北もあり、食い物にする列強と日本への反発から列強に宣戦布告をします。

 義和団が北京を包囲し、呼応するように清政府も列強に宣戦布告。イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の8か国連合は北京に軍隊を送ろうとしますが、列強同士の利害の衝突やにらみ合い、また派遣軍が義和団の妨害もあり中国国内で進軍できないなど、結局応援もなく2か月近く北京で籠城します。そこで活躍したのが我が柴五郎中佐です。

 ここまででけっこう長くなったので、「北京の55日」はまた別の機会に。

 写真は中島公園の池のカモ。餌をやるせいか、たくさんいて、人見知りしません。

明治の会津少年の苦闘

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『ある明治人の記録』(中公新書)を読みました。「会津人柴五郎の遺書」と副題のあるこの本の編者は石光真人(まひと、1904‐75年)。陸軍の軍人だった父親の真清(まきよ、1868‐1942年)の遺稿を整理してしばしば訪ねた相手が、父の知り合いの柴五郎(1860‐1945)だった。

 柴と石光のつながりは熊本出身の軍人で青森県大参事(知事)だった野田豁通による。会津人は戊辰戦争後、青森に移転させられたが、野田は戊辰戦争の敵藩についても分け隔てなく面倒を見たようだ。柴五郎も野田に給仕の仕事を世話してもらい、のちに幼年学校に通った。幼年学校といっても年齢は高校生か。

 石光も熊本を出て郷里の先輩の野田に預けられるが、遊び暮らしていたので野田の依頼で少尉になっていた柴は厳重に指導した。その後も10才違いの軍人として付き合いを続けた。元に戻ると息子の真人が父の事績を知るべく柴を訪ねて少年時代の事を聞いていると、柴は自分の草稿を持ち出し、添削を依頼される。それがこの「会津人柴五郎の遺書」。

 なぜ80代の柴が石光に添削をお願いしたかというと、柴の少年時代の覚書にあるように、10才で戊辰戦争に遭遇し、その後は敗軍・朝敵の藩士の一族として10代の前半には日本語の読み書きを学ぶ機会を逸して陸軍の幼年学校に15才で入学した。そこはフランス人の教師がフランス語で教える場であった。フランス語の読み書きはできるが、日本語はできない。つまり小中学校の教育を抜かして、高校からいきなりフランス人によるフランス語によるフランスの歴史や作文を教えられる。これが3年ほど続いた後で、政府が学校の教育方針を変えたのであった。

 この五郎少年が幼年学校に入るまでの苦労と言ったら、読んでも涙が出てくるような。藩閥政府の横暴と言っても言い足りない負けた側への残酷な処置だった。先週書いたように一族の女子、祖母・母・姉妹は戦力にならず兵糧も無駄になり、恥ずかし目を受ける可能性があると言うので自刃。残った父や兄たちとは離れ、ひとり一人学僕(学びながら務める書生のようなものか)とは名ばかりの下男のような仕事を続けて、仕事が亡くなった時には

一夜の宿を求めて流浪したり。

 ちなみに明治の政治小説『佳人の奇遇』を書いた東海散士は五郎の兄四郎で、白虎隊の生き残り。病弱で城で伏せっている間に白虎隊は討ち死にをしたのです。やはり会津人の薩長への憎しみは大変なもので、大久保・西郷の最後についても「当然の帰結なりと断じて喜べり」と記している。

 写真は知り合いの個展に贈った花束です。まちがって自分の家に送ってしまい、配達してくれたクロネコヤマトの人にそのまま持って帰ってもらった。その後2日遅れで東京銀座の会場についたようです。

バスキアと大物夫婦

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月曜の朝刊の1面広告(ティファニー)で、バスキアの絵とバスキア風の男性と大きくなった?ビヨンセが登場していた。調べてみるとバスキア風の男性はジェイ・Z(ジー)で夫婦でティファニーのCMに出演しているのでした。バスキアは好きで、NYで画集を買って帰ってきました。映画『バスキア』もバスキア本人んが出てくる映像も見ました。自宅玄関に飾ってある日比野克彦のポスターもかなりバスキアの影響を受けたものです。

 また昔話ですが、2001年NYにいた時に、ダウンタウンでCMを撮影している黒人男性がいた。近くにいた黒人女性に聞くとジェイ・Zよってうっとりしたような表情で答えてくれた事を鮮明に記憶しています。名プロデューサーとして有名になるカニエ・ウェストによるBlue Printが出た年だった。そうして同時期に町中でたくさん見たデスティニーズ・チャイルドのポスター。大人気だったこのグループの中心メンバーがビヨンセ。この10歳違いの二人がのちに大物夫婦になります。

 でそのティファニーのCMでのビヨンセ。顔は変わらないのに腰回りがかなり大きい(太い?)。この顔がそのままで体が太いっていうのは日本では見かけませんね。1996年フィラデルフィアで住み始めた時のレストランで。顔が細面の若いウエートレスが体形はおデブチャンで、そのギャップに驚きました。アメリカにいるうちにそのような事例?はけっこう見ましたね。ヨーロッパではあまりいないようなので、アメリカ的な現象なのかも知れません?

 でアメリカ的な現象なので、アメリカの人は芸能人でもそれを受け入れているのでしょうか。日本人の若い女性のように細すぎなくていいのですが、もうちょっとだけ痩せてもいいようにも思いますが。晩年のアレサ・フランクリンは巨大?になっていましたが、そんな風にはならないでしょう(そう思いたい)。

訃報と11月22日

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 高校3年の時のクラス・メート(女子、旧姓I谷さん)が亡くなった。夫は10組のM谷君。

 I谷さんとは高校の時に1回だけ喫茶店で話した事がある。第一鳥居近くの「ローマ」か「羅馬」というお店だったと記憶しています。デートになるのかな?

 その後同期会では会う事があった。それよりも友だちのM野が札幌に戻ってきた時に、彼の仲間(ゴルフのようです)の飲み会に誘われた。そのグループにM谷がいた。彼以外にも40数年ぶりに会うN山、N井。N山は僕が小樽商大で非常勤をした時に学生?でいたそうだ。N井は卒業前に東京に引っ越した。

 同窓結婚というか、同期で結婚したカップルは知っているだけで4組いるので、実際はもう少しいるかも。3年の時の同級生カップルは残念なことに相次いで60代前半で亡くなったので、子供が気の毒な。数年前に亡くなったI葉はクラスが一緒の事はないけれど、先輩の焼き鳥屋で会うと話が弾んだ。気が合うというのか。彼も隣のクラスの女子と結婚。

 今日のお通夜には行こうかどうか迷っている。僕の高校は、というか同期はけっこう盛り上がるので、それが苦手というか。お葬式もクラス会かミニ同期会の様相を帯びるのでは。ちょっと仲間になれない自分が歯がゆい気も。

 写真は同窓会で20期が幹事をやった時のクラス集合。48才でした。タイトルの11月22日は朝刊で知ったのですが「いい夫婦の日」という語呂合わせが皮肉な。

文学と他者/世界との葛藤

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アメリカ文学の勉強を少し始めようと思いましたが、非常勤についてはやはり年令の壁があったようで。文句を言えば依頼する相手の年齢と自分の大学の定年(非常勤もふくめて)について確認しておくのが筋だと思います。僕はそんな年には見えなかった?とメールには書いていましたけれど。

 「アメリカ文学概論」というフォルダを作って1個、ファイルも作りましたが・・・でも転んでもただでは起きない。アメリカ文学の勉強の最初は、独立前の布教や開拓、冒険の記録です。これがアメリカ文学の初期というか、文学以前というか。日記や記録も文学と言えるか。そもそも文学と隣の歴史や思想・哲学と文学を分ける基準は何か。簡単に言えば、創作、つまり作ったもの、虚構であるのが文学です。

 だとして、その虚構で何を伝えるのか、虚構を書く事で作者は何を目指すのか。読み手はそこに何を読み取るのか。昨年から今年にかけて読んできた、時代小説、ポール・オースター漱石フローベールバルザック直木賞小説などに何を読み取るのか。小津安二郎の映画で描かれる1950年代の結婚、親子については半世紀前の1900年代の漱石の結婚、相続と共通するものを感じました。

「文学とは何か?」という最終講義の時の質問に答えられなかったトラウマ?を解消するために、時々考えてはいるんんです。

「文学とは何か?」、または文学は何を描くか。それは他者/外部の世界や時代と自分との葛藤だと考えました。葛藤の「物語」。「物語」についてはこの次に。で、この葛藤というキーワードは、家族における大きくは親との葛藤。少し小さいけど兄弟との葛藤。家族外では恋愛の相手との葛藤。この家族や恋愛も時代の社会の規範が制約をかけてきます。そして学校での級友や教師との葛藤、職場での同僚や上司との葛藤。社会の規範や抑圧への抵抗。この自分と他者ひいては世界との葛藤については歴史や思想・哲学が扱わないものです。いや精神分析はこの葛藤が大きな主題か。しかし精神分析は患者の葛藤を分析して治療しますが、それを社会に公表して読者に読んでもらう事はない。

 もう一つ重要なのはこの葛藤の対象が自分の感情である事も多い。他者としても自分をとらえようとする意識。「私とは一個の他者である」というランボーの言葉はデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という特権的な主体を避けて、未知の自己を他者として書いたらしい。自分から一回抜け出て他者としての視点で自分を見ることが自分の発見になると考えたのだろうか。

 そしてジル・ドゥルーズの『差異と反復』には同じ言葉をカントの発見を要約する言葉として引用した。でもそんな文学史的な、哲学史的な知識とは別に、21世紀の僕らは「私とは一個の他者である」を普通の自分の認識として考える事ができる。自分の中の生きてきた中で取り込まれた、刷り込まれた規範とか道徳とかは他者的なものとも言えます。それ以外でも自分でも制御できない自分の感情も他者的な存在と言えます。

 自分との葛藤と言えば、自分の身体との葛藤もあります。何か不調を抱えている時に、その自分の体の声を聞くとき。自分の内部でもあり、でも自分がコントロールができない外部/他者でもある。すると他者/世界には、自分の体も入るか。孤立する個人の内部(意識、身体)もまた他者であるという事は、人は限りない孤独の中に生きている事になる。この孤独を擁する意識は同じ人間の身体の中にある訳だから、内部に他者をも抱えていて、その孤独はチャイニーズ・ボックスのようにらせん状に際限なく広がって、深まっていく。

 そんなとりとめのない事を考えている時に、スティングの音楽を聞いていると、何かそれでもいいんだよと慰められているような気にもなる。葛藤を鎮める音楽。

 この程度です。もちろん中間報告の前の前の段階。

  写真は家のダイニングからウッドデッキ、雑草、隣の生垣、公園の川の向こうの小山です。

柴中佐/『北京の55日』/会津出身の軍人

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1963年ニコラス・レイ監督の映画で伊丹十三が演じた柴五郎について。薩長の新政府軍と戊辰戦争で戦い、白虎隊で多数の戦死者を出した会津。その会津出身で大将まで出世した軍人について少し興味がありました。佐幕派/敗軍の人たちの明治時代におけるあり方/活躍について気になります。

柴五郎は会津藩士の子として1859年(安政6年)に生まれ、慶応4年(明治元年、1868年)会津戦争戊辰戦争の東北地方での一局面)の時に祖母・母・姉妹は自刃してしまいます。無事だった父や兄たちと東京収監をへて青森に移住。青森県庁給仕をへて、再び東京に。流浪と下僕の生活の後15才で幼年学校に入学。19才で士官学校、21才で陸軍少尉に任官。

北京、イギリスに駐在。1898年米西戦争の視察にワシントンを訪れます。この戦争は西部開拓を終えたアメリカがスペインから独立しようとしたキューバを助けて、カリブ・中南米に影響力を行使しようとするきっかけになります。柴中佐はアメリカ軍に同行してサン・ホアン(プエルト・リコ)、サン・チアゴキューバ)の攻防を観戦?します。観戦武官っていたんですね。戦争の見学というか、現場で戦術の勉強という事でしょうか。

そして1900年(明治33年)清国の公使館の駐在武官として着任して間もなくあの義和団の乱がおきる。暴徒が各国の大使館を取り囲む中、柴中佐は1年前の任務で周辺の地理と情報を調べ上げていたので、現実的に対応して評価され実質的な各国籠城の指揮官となった。事変後、柴は各国から勲章等の賛辞を得た。これが『北京の55日』の舞台。

 帰国後1902年には陸軍大佐に昇進し、1904年日露戦争に出征。1907年には陸軍少将に進級するが、佐世保の要塞司令官という閑職につかされる。柴の履歴を見ると、有能で昇進するけれど、赴任するのは目立たない場所であった。それは朝敵であった会津出身である事と、陸軍大学を出ていなかった事が理由らしい。でも最終的には1919年(大正8年)陸軍大将に進級する。

 かなり有能だったようです。外国に派遣されて義和団の乱をはじめ数々の業績を上げているのもある種の人間力のせだいと思われます。前述の義和団の乱でもイギリス公使の信頼を得て、英国首相とも何度も会見し、日英同盟のきっかけを作った影の立役者として評価されているらしいです。

 『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』(中公新書)を注文したので、後ほど感想など。

 写真は義和団の頃。中佐の柴さん。でも柴五郎という名前の、柴のSの音の歯切れよさと五郎というさっぱりとした語感。凛々しい顔立ちでもっと人気が出てもいいような。