禁酒、パンク、メタ的思考

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  今日で禁酒6日目。肝機能のために血液検査をしたらピロリ菌が陽性と判明しました。50代以上の人はみんな持っているそうですが、体が弱っている時に活躍?するんでしょうか。内視鏡の検査を経て、1週間の除菌(って言うんですね)をしています。ときどき痛風で数日禁酒をしますが、1週間飲まないのは数十年ぶり?かな。明後日のビールが楽しみです。

 雪が解けてきたので17日初めて自転車に乗りました。ところが数回のるとまたパンク。いつも後輪なので28㎜から32㎜のタイヤに代えました。細いタイヤは舗装がちゃんとした道ではいい走りをするのですが、そんな道ばかり走っている訳ではないので、少し太いタイヤにチェンジ。

 本は相変わらず小津本を読んでいます。20冊を超えました。映像も見たいけれど、作品と監督について知りたいと言う、時々いっていますが「メタ的志向/思考」です。(元)研究者としては文学でも映画でも音楽でも、作品を読んだ(聞いた/見た)うえでその作品を理解するために、作品論や作者について、生涯や時代や社会も含めて知ろうとするべきなのに、つい作品について(≒メタ)考えてしまいます。中心(作品)の周辺をうろうろするのが好きなのかも知れません。

 さてメタ的思考に淫しないジャンルとしては音楽。手元の『エヴァンスを聴け!』を再読しつつ、ビル・エバンスを聴いています。好きなのはRiverside4部作の最初かな、1961年のExplorationsです。特に1曲目のIsraelが好き。エバンスの有名な曲はタイトルにもなったWaltz for Debby、How My Heart Sing, Very Earyなどあります。どれも好きですがIsrael冒頭のつっかえるような、前に進まないで横に行くようなぎこちない、でもとても音楽的な逸脱と、その後のスムーズな演奏が対位的でいいです。

 ベースのスコット・ラファロの妹が書いた伝記も再読しましたが、本当に練習熱心ないい若者だったんですね。ビルのドラッグにも親身に忠告したり。直前によんだエバンスの伝記でつらいのは、最後は基本的には薬物の影響で体がボロボロになってしまう。その前にエレーンという奥さん(内妻)が、ビルが別の人を好きになったという告白を聞いて、そのすぐ後に自殺してしまいます。また2才上のお兄さんが自殺した事もビルの生きる気持ちを萎えさせる悲劇だったようで。

 僕はやはり60年代のビルの演奏が好きです。70年代のハードでスピーディな演奏も評価されていますが、60年代のテンポはスローなんだけれど、緊張感のある、メロディアスでカラフルで、清澄で聞いていて癒されます。

札幌を離れる

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 年下の友人が札幌を離れて京都に引っ越した。

 年下と言っても彼女のお母さんが僕よりも年下なので、娘くらいの年齢だろうか。

 7年前に九州から札幌の大学に赴任して、北海道支部の仲間になった。

 今回京都の大学に移動になったけれど、彼女のいた7年間は僕的にも変化の多い、思い出の多い期間でもあったのです。

 まず彼女が来た2014年は、5月の英文学会の全国大会が北大でありました。しかも10月のアメリカ文学会の方の全国大会も札幌。北海学園大学が開催校でした。本州からの会員は札幌が会場だと喜ぶのですが、1年に2回もだとそれはちょっと分散してほしいと勝手に思うのでしょう。

 翌2015年の秋のアメ文のほうの全国大会が京都、2016年の春の英文学会が京都で、今度は京都が続きました。それで2回目の京都の方はかみさんが同行。ちょうど直前にブラタモリが京都だったので、その情報で保津峡の川下りに挑戦しました。20年ぶりの清水寺。嵐山の竹林から大河内伝次郎の別邸など散策。いい思い出になりました。

 ちょうどブログ本を企画して、構成と文章の校正をしていた時期が2015年ですが、この時期は体調がよくなくて定年(68才)の2018年よりも前の退職を決めた時期でもあります。学生の声がよく聞こえない。少しめまいがする。そして2016年秋の岡山の学会で風邪をひいて、それが20年ぶりのぜん息の再発につながりました。

 2017年度の最後の10月は学会や出張(大学評価、地方保護者懇談など)でひと月で4回10日間も札幌を離れていました。千葉の柏市から羽田に向かう途中でほかの車の自己のために渋滞して羽田の予定した飛行機に乗り遅れたのも初めての経験でした。

 2018年3月に無事退職してのんびり。しかし翌2019年の2月に痛風。3月末に詳しくは言えない詐欺でそれなり?のお金を電子マネーで送金してしまいます。秋には40年来の友人が亡くなってしまいました。

 翌2020年はコロナ。けっこう波乱万丈の7年間(友人の赴任期間)と5年間(自分の退職前後の)でした。

 今年は世の中も、そして自分の体調も良くなってほしい。写真はきれいだった岡山の後楽園。高い木が少なくて芝生が多くて広々と感じます。日本庭園に洋風の雰囲気が少し。その25年前にも岡山に行った時には、当時はやっていた倉敷に泊まりました。最近知った『わたしの小さな古本屋』の「蟲文庫」が倉敷にあるので、今度は足を延ばしてみたいです。

『東京に暮らす―1928~1936―』、他者承認をこえて

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 中野翠さんの書評集『アメーバのように。私の本棚』(ちくま文庫)で教えられた外国人による日本人論的なエッセイ。イギリスの外交官夫人キャサリン・サンソムによるものです。外部から一時的に来訪した人の単純な日本人礼賛とそれを有り難がる日本人。他者から、それも特に西欧から認められると嬉しがるのが少し情けない。それって西欧を上位自我の様にとらえての他者承認の要請なんですね。そんな本が多いような気がして敬遠していましたが。

 しかし『東京に暮らす』は違った。日本人の欠点についての正直に指摘した上での日本人の美質についての描写が、女性ならではの生活の細かい観察が面白い。

 挿絵はマージョリー・西脇と言って詩人の西脇順三郎の夫人だったひと。僕は教養時代に西脇の詩を読んで英文科に決めたようなものだったので、西脇という名前が出てくると反応します。イギリス留学中に知り合ったマージョリーさんと結婚して帰国しましたが、残念な事に後に離婚。西脇も最初は画家を目指したぐらいなので、絵を描くマージョリーさんと気が合ったのでしょう。彼女イラストのタッチは太めの一筆のようでおおらか。よく分からない絵もありますが。表紙に使われた赤ちゃんを背中におんぶしてもう一人を前に抱えて日傘をさしている若いお母さん。あまり見た事のない風景ですが、外国人が好意的に誤解しているようで微笑ましい。 

ボサノバのミューズ

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  もちろんブラジルの女性歌手ナラ・レオンの事です。1942年生まれで1964年の『ナラ』でデビュー。この年にセルジオ・メンデス(懐かしい)とファッション・ショーのために来日したらしいです。1967年の『5月の風』と1971年の『美しきボサノバのミューズ』を聞いていますが、『美しき~』がいいです。主としてギターとのデュオですが、24曲中19曲がアントニオ・カルロス・ジョビンからみ。時々はいるトム(ジョビン)の訥々としたピアノがいい。

 聞いていて心地よいのは、メロディのよさに加えて、ナラの声の質、歌いぶり、単調なようで、複雑な和音で変化があります。以前にも書いたのですが、ボサノバってアフリカ的な荒々しいサンバのリズムよりも都会的で、ミニマルな音楽です。もっと輪郭のはっきりとした音楽が好きな時もありますが、今はこの少ない動きの中でのいろんなニュアンスを楽しみたい気分です。

 さて1960年代のブラジルは軍部のクーデターで独裁政権がはじまり、ナラは曲でもプロテストしていたせいか目を付けられ、1968年にパリに亡命します。『美しき~』はそのパリでの録音でした。その後70年代は育児などで中断。80年代に再開しますが、1989年脳しゅようのために47才で亡くなります。

  ブラジル音楽の本を読むと、ナラ・レオンのアパート(実家の)に若き音楽家が集まっていたようです。そしてトムとモラエス(詩人、政治家)との交流や、バーデン・パウエルのギターもクラシック(西欧)とサンバ(アフリカ音楽の影響)とブラジルの年音楽の越境によるものだと分かります。

 写真は『5月の風』の方。『美しき~』のジャケットはあまりよくない。しかもこのCDは2枚持っていました。

櫻谷の寒月にしびれる

 木島櫻谷(このしまおうこく)という明治10年生まれの日本画家について3週間前くらいの新聞で知った。明治後半から昭和初期に活躍したようです。曽おじいちゃんが狩野派の絵師で、おじいちゃんと父さんは宮廷に高級家具を納める仕事をしていたらしい。

 高等小学校を出て商業学校予科に進むけれど中退。お父さんの友人で親代わりでもあった京都画壇の大家に弟子入りする。四条・円山派(よく分からない?)の流れをくんだ写生を基本として、初期は動物画を得意としたらしい。明治32年(1899年)から36年(1903年)の作品が宮内庁天皇買い上げになるというから、作品の質や題材もそのようなものだったのだろうか。

 題材も花鳥画山水画、歴史人物がへと広がっていくが、展覧会のあり方の変化も櫻谷の画才というか画風にあっていたようだ。というのは展覧会が西洋建築による大空間で開催されるようになると、伝統的な屏風絵を左右対称ではなく、時間が止まったような静的な空間と動物の動きが横長の画面で統一されているように見えます。

  京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)の教授になり、京都画壇において注目されつつもその画風によって敬遠された。京都の郊外に隠棲し、しかし次第に精神を病み、昭和13年京阪電車に轢かれて亡くなった。享年62才。

 

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「寒月」は月に照らされた雪深い竹林と、一匹の狐がパノラマ的な横長のキャンバスに描かれます。魅かれたのは竹林と雪と狐の静謐で孤独な時間が感じられた事。日本画でありながら、どこか西洋画の色合いもモノクロームに見える中から青や茶などが塗られているように見えます。狐の足跡も動きを暗示し、静と動、墨絵とカラー、日本と西洋などの矛盾が統一されて、奥深いリアリティが感じられる(ような気がします)。

千円札をばらまく!?

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  1週間か10日に一度、買い物とランチを兼ねて街へでていました。それが年末の体調不良から、体力に自信がないので控えていました。と言うか何か気分的にも駄目だったんですね。

 それが3週間ぶりに出かけてみました。何でもありません。大丈夫でした。東急デパートで買い物をして、地下鉄で大通りまで行き、丸井デパーㇳで追加の買い物。その後いつもの「チャイナ・パーク」でランチ。それが1万円札で8枚の千円札の釣りになったので、そのまま巻いてポケットにしまったのが悪かった。ここで財布に収めればよかったのでした。

 地下街よりも外の空気を吸いたくて、地上に出ました。歩いているうちに千円札を財布に入れようとポケットを探ったけれどない。少し戻って落ちていいないか探してると、工事現場の交通整理のお兄ちゃんが「おじさん、これ」と言って2枚の千円札を渡してくれました。通行人が拾ってそのお兄ちゃんに託したそうです。

 お礼を言いつつ、8枚落としたんだけどと言って付近を探したけれどない。そのお兄ちゃんは親切に近くの交番に届けたらと言ってくれました。でも落とした後バラバラに道路に散らばっただろうから、諦めました。う~ん、老化によるものか、ビール(ジョッキ1杯)と紹興酒(グラスに1杯)のせいだろうか。老化とお酒の両方が原因だろうと納得して帰宅。もちろん奥さんには報告できません。それと「おじさん」と言われた事がけっこうショックでした。

 写真はかなりの頻度で登場のもの。餃子が出てくる前に、ビールが減っています。これが6千円紛失の原因です。でも誰にも文句は言えない。

斉藤哲夫を聴く

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 坪内祐三から中野翠中野翠から小津、そしてなぎら建壱の酒場もの、『日本フォーク大全』(ちくま文庫)を読んでいます。追悼物?から和田誠の対談(三谷幸喜川本三郎など)などで2月は過ぎました。

 なぎらさんはNHKの午後なまで見かけますが、フォーク第2世代でフォークの歴史を現場からよく見て、記憶していてしかも文才もあります。僕的には「悲惨な戦い」のコミック・フォークが印象深い。

 で斉藤哲夫は1950年生まれ。僕は80年代にラジオのDJで聞いた記憶があります。「グッドタイム・ミュージック」や「ダンサー」の少し高い、少しかすれた声と歌詞とメロディが好きになった。しかし1980年のミノルタのCM「いまのキミはピカピカに光って」がヒットしたのが、よかったかどうか。あの熊本大生の宮崎美子の映像はよく覚えています。

 実は「いまのキミはピカピカに光って」は作詞が糸井重里、作曲は鈴木惠一(ムーンライダース)だったので、ヒットした曲が作詞作曲を自分でするフォーク歌手としては納得できないものがあるように考えるメンタリティの持ち主の様になぎらの描き方では思えます。吉田拓郎がカバーした「されど私の人生」や「悩み多き者よ」などから歌う哲学者とも呼ばれたらしい。

 でも数十年ぶりに買ったCDで斉藤哲夫の歌を聴くと、懐かしいと共に今でも色あせない音楽の底力を感じます。